2017年6月26日月曜日

沖縄慰霊の日・特集

「沖縄慰霊の日」大特集

全国的にはあまり知られていませんが、筆者の故郷・沖縄では6月23日は公休日です。
その日、糸満市摩文仁(まぶに)にある県営平和祈念公園にて、沖縄全戦没者追悼式が毎年行われています。



先般の当コーナーと同様のドキュメンタリータッチで、今回の特集の構成を組み上げました。
先般特集「沖縄祖国復帰45周年記念」が契機となり、その連続性で今回の特集としました。
今回特集の内容が内容だけに、そのアップに迷いや葛藤もありましたが、筆者の人生の中で大きな部分を占める事柄だけに、
また筆者の命の季節もまた終演(焉)に近づいているだけに、この場にて筆者の気持ちを少々発露させていただきました。
( 編集に際しては可能な限り正確性を期しましたが、時系列やデータ数量等に誤りがあるかも知れません。ご了承下さい。)
関心のある方だけでも、お付き合いいただければ幸いです。

「デイリー・ギャラリー(その62):戦争写真:沖縄戦」


「 序:はじめに 」

記録写真は歴史の一側面を切り取り、それを第三者に提示することが可能な媒体で、現代社会にとって必須の手段です。
写真術が発明された近代当初より、写真そのものが記録そのものであり、人類にとって最も重要な複製道具となりました。
その効用に着目した国家や個人は、社会の世論や動向を操作する手段として利用、言語を超えた衝撃を人々に与えました。
多くの言葉や書物より1枚の写真が明示する現象は、それまでの人類が踏み込めなかった領域にその説得力を拡大しました。

戦争写真もまた、これまで人々が経験不可な光景を生々しく写し取り、社会や生活に大きな影響を与えられるようになり、
その効用を活かしたい人々の需要から、職業人としてのカメラマンと言う人々を生み出し、彼らのその情熱と技術により、
戦場における歴史的瞬間を多くの人々が平和裏に短い時間に理解・判断を下せ、世論の形成に役立てられるようになりました。
近代国家はその統一と支配を強固・容易にすべく、職業カメラマンたちを戦場へと派遣し、国家の利益形成に活用したのです。



以下の特集は、そんな従軍・戦場カメラマンたちが命を賭して撮影した写真を元に構成しました。

以下の多くの写真の出典元は前回同様、米国の多くのサイトからの借用で、キーワードを「Battle of Okinawa」としました。

国内の公的機関からの使用可能な写真は数も画素も少なく、またはブロックが施されていたりで、使用に制限を感じました。
また今回の歴史的・戦争写真の性格上、写真撮影者はアメリカ軍からの視点のみで、日本側からの写真は当然ながら皆無です。
従って、これらの写真は歴史的事実の一側面であり、もう一方の当事者である日本側・住民側からの側面・視点はありません。
また収集できた画像には犠牲者の遺体写真も数多くありましたが、見るに絶えず、忍びなく、必要最小限に留めておきました。
以下、ご覧いただければ幸いです。

* * *

「 鉄の暴風  ( "Typhoon of Steel ") 」


72年前の4月、この海の彼方より大きな厄災が、筆者の生まれた小さな島を襲いました。
中央部遠方に見える伊江島もまたその激しい戦火に見舞われ、多くの悲劇を生みました。
1945年の事です。



太平洋戦争末期、沖縄攻略戦を米英連合軍では「氷山作戦( Operation Iceberg)」と命名。
当時、想定されていた本土決戦に向けての重要な根拠地として、米国では沖縄の占領が立案されたのです。
欧州のノルマンディー上陸作戦を含めた第2次世界大戦史上、最大の物量規模を投入して行われた作戦です。
この筆者の故郷の小さな島に殺到した連合軍艦船、実に1800隻を数え、55万人もの兵士が投入されたとの事。
迎え撃つ日本軍守備隊は従来の水際作戦を取らずに持久戦に持ち込み、本土決戦準備の時間稼ぎとしました。
とは言え、
海上でもその大規模な米英艦船には九州から飛来した特攻機攻撃や、戦艦大和などの特攻出撃もありました。
かくて、
太平洋戦争唯一の国内地上戦として、一般住民を巻き込んだ三ヶ月にも渡る血みどろの死闘が開始されました。

* * *

「 艦砲射撃 」

1945年4月1日
米英を中心とする連合軍機動部隊が沖縄本島を取り囲み、言語を絶するほどの砲弾を撃ち込みました。
その総数量、一説では土地一坪に対し、約4トンの砲弾・弾丸が撃ち込まれた計算になるとのことです。
( その前年の10月10日に米海軍艦載機により、那覇市内が初めての空襲を受けていました。)
制空権を失った沖縄では、艦砲射撃や上陸前に島中を包囲する大艦隊が見られ、パニックになったとの事。

沖縄本島へ向けて、無数のロケット弾を打ち込む米軍強襲揚陸艦。

発射時の爆発力のみで推進する従来の砲弾以上の高速度で目標物を破壊する強力ロケット弾。

上陸部隊の初期損害を可能な限り減らすため、艦砲射撃は上陸地点を中心に全島に渡って行われました。
筆者隣家の老婆の証言によると、その艦砲の音と地響きはもの凄く、この世の終わりかと思われたそうです。
でもそれは終わりではなく始まりの序章に過ぎず、本当の地獄が人々を襲うのは時間の問題だったとの事です。

前述のロケット弾とは破壊力も数倍強力な砲弾が何千・何万発と撃ち込まれ、島の様相は一変しました。



「米軍、上陸開始」

本島中部・西海岸へと向かう水陸両用兵員輸送車群。後方は上陸部隊を支援、艦砲射撃を行う米戦艦。


沖合のリーフ(環礁)の浅瀬を踏破して、海岸へと向かう水陸両用兵員輸送車。

これまでの南方戦線とは違い、無血上陸を果たす海兵隊。「まるでピクニックのようだ。」
予想を超えた静かな上陸に、やがて来たる壮絶な戦いを誰もが想像できなかったとの事です。

揚陸艦や上陸用舟艇、水陸両用戦車などでごった返す本島中部・読谷村渡久地の海岸線。
但し、島を取り囲むリーフ(サンゴの環礁)のため、大型船がその手前にて停泊しています。


大型艦船による物資陸揚げのために、水深の深いリーフの外海まで桟橋(橋頭保)が築かれている様子。

内陸へと耕作地を進撃する戦車部隊。海岸線ではリーフの存在で大型艦船はその沖合側に停泊中。


次々と大量物資を陸揚げする上陸部隊。海岸には大量のドラム缶(戦闘車両用燃料?)が山積みされています。

* * *

「神風の海と空 ( Sea and Sky of KAMIKAZE)」

上陸開始と時をほぼ同じくして本土から日本軍機も飛来。「菊水」作戦と名付けられた特別攻撃を敢行しました。
それは自殺(殉死)攻撃(Suicide Attack)で、「神風(Kamikaze)」の呼び名で、米軍を恐怖に陥れました。

合計1900機の陸海軍航空機が米英大艦隊へ特攻攻撃を敢行。本来の呼称は神風(しんぷう)ですが、かみかぜが定着した。
但しその多くが、連合軍の大艦隊に到達する前に、強力なレーダー網で捕捉され、待ち構える米軍機に撃墜されました。
それでも僅かに生き残った特攻機が大艦隊上空に到達。物凄い機銃掃射と弾幕とをぬって、体当たりを敢行しました。

大戦末期、米軍艦船の発する対空砲弾は近接信管と言う、最新トランジスタ製のセンサーが取り付けられており、
標的に確実に当たらなくても、その近接周囲で爆発。その破片が四方に飛び散って、日本軍機を撃ち落としました。
また黒い弾幕は日本軍機の視界を低下させるため、機銃の弾丸に専用の発煙弾が一定程度、装填されています。
通常、機銃には多種用途の弾丸が組み合わせ装填されており、金属装甲を破壊する徹甲弾や内部爆発を促す弾丸、
また機銃掃射の弾道を確認し易くするための曳光(発光)弾等があり、それら数種が日本軍機を襲っていました。


 米艦船からの夥しい機銃掃射の弾幕をぬって、海面すれすれの低空飛行で襲いかかる「神風」特攻機。
右は筆者が拡大した画像で、中央・海面すぐ上に機首をこちらに向ける機影らしきものが確認できます。

以下は「神風」特攻機の攻撃を受ける連合軍(米英)の艦船。
凄まじい弾幕と機銃掃射の水柱で、艦船どうしの誤射・被弾もあったかも知れません。

特攻機が艦首左舷脇に墜落し、水柱をあげた瞬間の映像です。

米艦船の艦首(手前に2門の大砲と碇(いかり)の鎖)からの映像。画面中央には特攻機の機影が。

左右:特攻機の攻撃を受けて炎上する英国海軍の空母「フォーミダブル」

左:米空母「ハンコック」        右:米空母「インテレピッド」

左:空母「インテレピッド」         右:空母「バンカーヒル」

左:戦艦「ニューメキシコ」        右:空母「エンタープライズ」

写真に詳細なく艦名など不明ですが、黒煙の下で起こっている事象が胸を締め付けます。

特攻機が命中し、爆発炎上する米空母「バンカーヒル」


「特攻機の最後」

右は燃料に引火しながらも特攻姿勢を取る海軍双発戦闘機「月光」と思われる機影。

判別困難ながら、形状やアンテナの位置などから海軍の複座艦爆機「彗星(空冷)」だと思われる機影。

左:被弾しながらも空母に突入を図る特攻機機影(右下は飛行甲板で翼を折り畳む艦載機)。

戦艦「ミズーリ」右舷後方に突入寸前の特攻機。
*筆者注:追記
この直後、特攻機ゼロ戦は左主翼を鉄製甲板に打って全壊、海中へと墜落・水没。操縦士が戦死しました。
が、遺体は当艦により収容され艦長の計らいで、敵軍ながらも正式な水葬の儀にて手厚く葬られたとの事。
その際の写真では遺体の棺が日本海軍(星条旗を塗り替えた)旭日旗で包まれており、感銘を受けました。
戦後の日米調査で操縦士名が判明、岡山県出身の立野節雄二等飛曹で、当時若干19歳だったとの事です。
ミズーリはその後生き延び、日本敗戦直後にその甲板上では「日本軍敗戦調印式」が執り行われています。
現在、ミズーリは記念館となって米国ハワイの真珠湾で永久展示されており、衝突痕跡も残っているとの事。

「神風特攻による犠牲者数」

菊水(神風特攻)作戦が実施された期間(4月6日~6月22日)に投入・出撃された日本陸海軍の航空機の総数は、
海軍940機、陸軍887機、
戦死者海軍2045名、陸軍1022名、合計3067名、
一方の米英軍側の損害は、
米軍洋上戦死者4907名、戦傷者4824名、艦船の沈没36隻、損傷218隻
にのぼったとの事です。


この特攻機の総称は英語だけではなく、国際語として定着した日本語の代表的な言葉ですが、
特攻隊員を狂信者や国家による洗脳犠牲者と結論づける論考も多くありますが、その精神性、
一言では断罪不能な複雑深淵な背景があり、筆者は彼らの存在を否定的には考えられません。
筆者、高校時代に彼ら特攻隊の手記を読みましたが、彼らの純粋さに率直に心打たれました。
死にたくないながらも、故郷の父母(特に母)家族・恋人・妻子の命を守るための防人・人柱となったのです。
筆者がよく利用しているyoutube上には無数の特攻機の実写動画があり、その断末魔・映像、見るに堪えません。

* * *

「地上戦:鉄の暴風痕跡」

爆撃痕だらけの本島上空を編隊飛行する米艦載機ドーントレス急降下爆撃機。

沖縄本島上空から撮影された地上の様子。砲弾爆発の穴に雨水が溜まっています。
無数の穴はロケット弾か、または迫撃砲による爆発の痕跡だと推測されます。
点在する大きな穴は戦艦級の口径40cm前後の主砲で出来た爆発痕だと思われます。
これら艦砲の爆風や破片殺傷性は凄まじく、着弾地点より遠くとも風圧・破片等で内蔵破裂も。

地上部隊を空から支援し、日本軍陣地に向けてロケット弾を浴びせるF4Uコルセア戦闘爆撃機。
そのエンジン出力は強力で2000馬力を誇った。ちなみに日本軍の代表的戦闘機のゼロ戦は500馬力。

*

「 太平洋戦争史上最大の地獄の肉弾(白兵)戦」

守備隊司令部の置かれた首里の北方の丘陵地帯には日本軍陣地が幾重にも在り、その攻防は熾烈を極めました。

日本軍の爆雷攻撃を受けて転覆したM4シャーマン戦車(youtube上にはこの動画も有り)。

日米で実に11回もの争奪が繰り返されたシュガーローフ・ヒル(Sugar loaf Hill)安里52高地の様相。

 日本軍の野砲(手前)で、残骸と化した米軍M4シャーマン戦車3両。右手の丘がシュガーローフ。

 左:シュガーローフ・ヒルの争奪戦。     右:ハクソー・リッジ(弓のこ崖、前田高地・浦添グスク)

筆者追記:前田高地のある浦添村(当時)では住民の約半数が戦火に巻き込まれて亡くなっているとの事です。

米軍偵察機による戦後航空写真(左ー南、右ー北)。中央の首里以北(右側)の丘陵が日米軍最大の激戦地となりました。

那覇西方の首里には日本軍の司令部が置かれていたこともあり、その手前地帯での戦闘は激烈だったとの事で、
丘陵地帯を利用して幾重にも日本軍陣地が構築され、太平洋戦争史上、最も過酷な白兵・肉弾戦が交わされて、
米軍の死者は1週間で2600名を超え、戦闘疲労症(精神異常)者も1300人以上を超える激闘を繰り広げた。

この小さな台地を米軍はシュガーローフ・ヒル(砂糖菓子)と称し、数々の著作物や映画にもなっています。
最近作では、スティーブン・スティルバーグやトム・ハンクス等が中心となって監修した「ザ・パシフィック」や、
つい先だって国内でも封切られたばかりのメル・ギブソン監督最新作の「ハクソー・リッジ(弓鋸崖)」があります。

* * *

「那覇進攻」

圧倒的な物量・火力・兵力、海と空からの支援攻撃等の米軍に消耗戦を強いられ、日本軍は壊滅状態となります。
首里以北の最大の防衛線が突破され、首里城地下に置かれていた司令部も南へと撤退を余儀なくされました。
那覇市の住民は前述の十十空襲から立ち直る間もなく、町を捨て、南部方面へと避難せざるを得ませんでした。

左:那覇の古都・首里のキリスト教会に立てこもる日本軍狙撃兵を攻撃する米兵士。
右:那覇市内で、日本軍敗残兵・掃討中の米陸軍と海兵隊。住民避難後も狙撃兵が。

狙撃兵を掃討する海兵隊員。
*筆者注:左端に見える2階建てのコンクリート建造物は、筆者が通っていた那覇市内の中学校校舎だと思われます。

那覇の景勝地・波の上宮より、その鳥居と後方の筆者中学校校舎を望む画像。

下中央が波の上宮の断崖で、左の隆起サンゴの岩塊りは現在の旭丘公園付近。遠くにはやはり筆者の中学校の校舎が。

焼け野が原・無人の廃墟と化した那覇市街地。
偵察機の右車輪下に見える建造物は、筆者が通った上山(うえのやま)中学校の校舎。その下には波の上宮の鳥居。
偵察機主翼上に見える橋は「明治橋」、背後は奥武山(おおのやま)。すべて筆者少年時代のお馴染みの地です。
筆者の通った中学校の古い校舎、壁面には無数の弾痕が刻まれおり、2階には日本軍狙撃兵が籠城していたとの事。

「筆者ひと口・思い出話(その1):赤錆びた弾丸」

筆者が幼少の頃に住んでいた地区は市内の丘陵地帯で、草むらに一歩足を踏み入れると赤錆びた無数の弾丸がありました。
先端が丸くなった小さなライフル弾、先が尖った機関銃弾、様々な口径や長さの銃弾が草と土の狭間で散乱していました。
そんな鉄製の弾丸の中から、サビの少ない方だけをポケットいっぱいに選び、帰宅後に紙ヤスリで磨いて遊んだものです。
そんな収集を繰り返すうちに、幼い筆者のポケットは赤黒く染まり、穴が空き、母にその遊びを禁じられてしまいました。
弾丸を発射させた薬莢も無数にありそうなものですが、真鍮製のそれは需要があり、戦後いち早く回収されたとの事です。
でも考えてみれば、これらの大量の弾丸、米兵や日本兵のライフルや機関銃から発射され、一体誰を狙ったのでしょうか?
その弾丸の弾道の行き先には?

「筆者ひと口・思い出話(その2):不発弾」

いつものように自宅近所の丘を駆け登ったりしながら遊びまわっていた筆者・小4のある日のこと。
前述の丘の中腹には伝統的な亀甲墓が連なっており、その狭間の石灰石が崩れ、未回収の不発弾が顔を覗かせました。
赤錆びたその鉄塊り、その形状からすると、不発した旧日本陸軍の擲(てき)弾筒型手榴弾のようでした。
第一発見者の筆者らは興奮のあまり、近所の大人に報せる前に、駆け足で近くの派出所に駆け込みました。
「不発弾?」「どこにあったのか、ここに住所を書いて」と面倒臭そうに警察官がメモ用紙を渡しました。
「住所は知らない、墓地だから。でも代わりに地図書く。」と言うと、じゃあ、明日取りに行くとの返事。
その翌日、下校後に現場で待つも、いつまで経ってもお巡りさんは現れません。その翌日も次の日も現れず。
業を煮やして派出所を尋ねると、別のお巡りさんがまたもや面倒臭そうに同じ質問と「明日」と同じ返答を。
通報から数日経過。でも一向にお巡りさんは現れません。このままではもっと下の子供たちに見つかる危険も。
待ちくたびれた筆者ら、気を効かせて自らそれら数発の不発弾を掘り起こし、手分けして派出所へ持参。
しかし派出所は無人。「なあんだ。せっかく持ってきたのに」仕方なく机の上に不発弾を並べて失意で帰宅。
褒めてもらえるとばかりに持参したこのボロボロの不発弾、かなりヤバい状態だったのかもしれません。
翌朝登校時、派出所周りにはロープが張り巡らされ、警察官たちが子供たちに迂回を支持していました。
どうやら「知らぬが仏」の危険物だったようで、自らがお陀仏になるところでした。

「筆者ひと口・思い出話し(その3):堤防の導火線」

筆者小5の頃、学校帰りに市内・波の上海岸に泳ぎに行くことが時々ありました。
砂浜で6年生の男子に出会い、「面白い遊びをしよう」と誘われ、彼の指示通り、砂の中から黒い粒を集めました。
同級生3人で空き缶にその粒を拾い集め、堤防の上に広げ乾かしました。30分程で結構な量の粒が集まりました。
「よし、これから凄いもの見せてあげる」小6男子がそう言い、大量の粒々を堤防の上で一直線に並べました。
「これが導火線になるんだ」彼は持っていたマッチを取り出し、その一方の端にマッチの火を近づけました。
その黒い粒々、大きな赤い炎と音を発し、夕刻の空を背景に堤防の上を勢いよく進んで行き消えました。
父によると、戦後廃棄された砲弾や機銃弾が腐食し、内容物の黒色火薬が海へと拡散したものだそうです。
考えてみれば、それだけ大量の砲弾や火薬が、筆者の生まれ島の周囲の海中には今も眠っているのです。
長さ1メートル程のほんの数秒の燃え上がる炎、筆者の遠い記憶の中で、今でも鮮やかに燃え出します。

* * *

「南部方面での悲劇」

首里の防衛線が破られ、組織的抵抗が不可能になった守備隊は、本島南部へと撤退。
各地から避難してきた多くの住民を巻き込みながら、敗残兵状態で南部各地へ逃亡。
撤退する日本軍は天然の鍾乳洞や伝統的亀甲墳墓を防空壕として使用する避難住民と混在、混乱を極めました。

攻撃前偵察中の米海兵隊員。大きなシーサー石碑には機銃掃射の弾痕が見えています。
場所は東風平(こちんだ)村の富盛(ともり)地区で、八重瀬岳攻略中の写真との事。

そんな戦場に於いて、沖縄の高校生(旧制中学)が軍に招集され、男子は斬り込み隊や通信隊として服務。
女子は主に「ひめゆり学徒隊」として看護婦として軍務に就き、合計二千名にも上る犠牲者を出しました。

また住民が避難する豪に守備隊が後からやって来て、赤子連れの母親や住民が追い出されりもしたとの事。
また米軍の攻撃を恐れた住民たちが手榴弾使用による集団自決も各地で多発、相当数の死者を出しました。
そんな集団自決写真、老若男女が折り重なって命を断っていて、ご遺体の顔も明白で、掲載出来ませんでした。
南部の各地域では、家族全員が戦火に散り、一家全滅の家庭も多数発生したとのことで、正に地獄の戦場です。

「筆者、特記」

この件に関しては、今回の特集では敢えて触れていません、と言うよりは触れることが出来ませんでした。
米軍史観による沖縄地上戦の象徴的核心部分が「シュガーローフ・ヒル」を中心とする激戦だとするならば、
上陸された沖縄の住民側の象徴的厄災が、この南部一帯で繰り広げられた一般住民の無数の悲劇がそれです。
筆者の筆力や勇気・心情・信条では到底記述できず、また当コーナーで取り上げるには余りにも重過ぎました。
筆者、幾度も画像を乗せては削除を繰り返し、記述してはまた削除と、自身の意気地の無さ加減で断念しました。
本来なら、その記述こそが住民側からの「沖縄戦」の核心部分に違いないことは重々承知してはいますが・・・。
この地獄を生き延びられた(筆者が若き頃に触れた)人々の話しや書物にその役目をお願いしたいと思います。

 戦車に搭載された火炎放射器で、洞窟や亀甲墓(右写真)に潜む兵士や住民を襲う場面。

火の着いた爆雷を、無差別に洞窟に投げ込む海兵隊員。
入口から出てきたところを待ち構えて、一斉機銃掃射を浴びせたりしたとの事です。
・・・。

米海兵隊に見つかり、救助・保護された老婆。

「ひめゆり学徒隊」

こちらは海兵隊員に射殺された女子高校生。退路を断たれ、攻撃を仕掛けてきた従軍看護学生との事。
米兵がその遺体から、日本軍に手渡された擲(てき)弾筒型手榴弾を取り除こうとしています。
右には日本軍鉄兜と、左の肩掛けには5連装の小銃弾が見えます。持たされた経緯、いかばかりか。
筆者とても迷ったのですが、今回の特集で唯一、このご遺体の写真を掲載させていただきました。
上写真は現在ネット上には無く、筆者所有の沖縄戦記録写真集(那覇出版社)からの複写です。
合掌。


沖縄戦では梅雨と重なり、戦傷の悪化を招いたかも知れませんが、同時に生命維持のための水を供給もしたと思います。
それがせめてもの救いです。隠れ潜んでいた壕内では糞尿や血液混じりの水さえも飲料にされたと聞き及んでいます。

米軍の戦後報告書に記された「ありったけの地獄」とは、その経験者でなければ解らない地獄が悲劇が展開されたのです。
住民の生死を分けたものは「運」以外の何物でもありません。
沖縄北部で1/4、追い詰められた南部方面では実に1/3以上の人々が戦火に倒れ、帰らぬ人となりました。

「鉄血勤皇隊」

日本軍守備隊は兵力の強化を図るため、住民の中から青少年を強制招集し、軍務補助に当たらせました。
初期に於いては陣地間の伝令や物資補給等でしたが、末期には夜間切込みや戦車への爆雷攻撃も命じました。
年齢的には旧制中学とは言っても、その実、もっと下の少年たちも戦場へと駆り出され、夜襲に動員されたとの事。
「殺すか・殺されるか」の戦場に於いて夜襲をかけて来た敵兵を殺した米兵が朝になってその死体を確認、驚愕したとの事。
その遺体は成人の日本兵ではなく、年端もいかない少年だったとのことで、戦後もずっと戦闘疲労症を患っていたとの事。

左:米軍医から手当てを受ける隊員。 右:幸いにも捕虜となり、米兵情報将校から尋問を受ける鉄血勤皇隊員の少年二人。


「地獄の戦場から生還した戦争孤児たち」

左:木の枝に白布をかけて投降する幼女。 右:助け出された幼女(動画では恐怖に全身を震わせています)。

左:手足が血だらけながら救出された少女。中、右:救出直後、食料を与えられる幼女たち。

こちらも助け出された幼女たち(左2名、右3名)。彼女らの両親が亡くなられたのは明白です。
幸いにも助け出された彼女たちのその後の人生がどのようなものとなったのか、知る由もありません。

* * *

「筆者特記:学童疎開船・対馬丸の沈没」

「沖縄戦」開戦前の昭和19年、戦局の激化に伴い政府命令で学童たちが本土・九州へと疎開することとなり、
その一環として対馬丸も同年8月に他2隻と共に那覇を出港するも、夜間、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没。
国民学校学童を中心に民間人1476名の命が犠牲となり、中に筆者の母の母(疎開先までの付添い)と弟二人も。


「筆者ひと口・思い出話し(その4)」

筆者20代前半、スカイメイト制度を利用して空路帰郷することが定番となっていました。
ある帰郷時、筆者、祖母や小学生のままの叔父二人を弔うため、機内後部デッキ窓辺で黙祷。
客室乗務員が筆者に「南の海はほんとに綺麗ですよね。さっきまで屋久島も見えてましたよ」
「今なら奄美大島手前の諏訪之瀬島や悪石島辺り。綺麗ですよね。海が好きなんですね。」
「心の中・黙祷」で窓の外を見つめる筆者、その理由と事情を客室乗務員さんに話しました。
「そんな事があったんですね。今までそのように考えて海を見たことはありませんでした。」
「島の名前は観光客の質問にも答えられるよう、研修で教えていただいていたのですが。」
「貴重な話し、教えていただきありがとうございました。」と礼を言われてしまいました。
眼下の海底には本土に行けるとはしゃいでいたと言う子供のままの叔父たちが眠っています。
海からそびえ立っていた屋久島も、大和等や特攻機の出撃も見送っていたに違いありません。

* * *

「 終焉 」

日本軍守備隊は終焉の時を迎えます。
沖縄方面総司令官、牛島満・陸軍中将は幹部将校と共に自決を決行。
6月23日、追い詰められた南部南端・摩文仁の断崖中腹の豪の中での事です。
日本軍の組織的抵抗の最後ですが、残る将兵に何の命令も通達せず、それを知らない戦いや死が続行されました。



当コーナーを締めくくるに当たって、
以下に、海軍司令官だった太田実中将の本土への電報文をアップします。
今回の特集で写真映像の存在しない日本軍側の「沖縄戦」に対するある意味、総括のようにも受け止められます。
筆者高校時代、政治経済の課題のレポート勉強の際に知ったこの電文の内容、今もしっかり記憶に残っています。
( ちなみにその時に提出したレポート、先生から「教職冥利に尽きる」とのお褒めの言葉と成績を授かりました。)

大田実(海軍)中将の電文

(備考)1945年6月6日、米軍の激しい攻撃にさらされ孤立した沖縄戦司令部から本土参謀本部へ発信。当時決別電文の常套句であった「天皇陛下万歳」や「皇国ノ弥栄」などの文言はいっさいなく、ひたすら沖縄県民の献身と健闘を称えている。なお大田実中将は、下記電文打電後、自決。
大田実(最終階級:中将、沖縄根拠地隊司令官)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%...
【仮名遣い変換版】
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
 左の電文を次官に御通報方 取り計らいを得たし
 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるにつき、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。
 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍、防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんど顧みるになかりき。
 然れども、本職の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、なお、砲爆撃下***風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。
 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。
 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙にくみせらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。
 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身寄りなき重傷者を助け、あえて真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。
 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。
 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ、ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に****与え*ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形****一木一草焦土と化せん。
 糧食6月一杯を支うるのみなりという。
 沖縄県民斯く戦えり。
 県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。
(***=判読不明部分)

筆者高校生の頃の政経レポートから半世紀。
筆者の想いや、故郷を取り巻く内外状況はますます複雑深刻化しています。
一過性ではない「恒久平和」が、筆者の故郷の小さな南島に訪れることを願ってやみません。

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「英雄、アーニー・パイル死す」

左:兵士に煙草を手渡すアーニー・パイル(中央左)。  右:戦死直後。無傷に見えますが、頭部に致命傷の弾丸被弾。

今回特集のテーマ「戦争写真」を撮り続けた連合軍のヒーロー的カメラマン、アーニー・パイルが戦死しました。
アーニー・パイルは同僚ロバート・キャパと並ぶ著名な写真家で、伊江島での取材中、日本軍狙撃兵の銃撃で死亡。
この特集の中に彼の撮った写真があるかは不明ですが、米軍や本国米国では彼の死を大いに悼んだとのことです。
また連合軍総司令官のバックナー中将も前線視察中に戦死、その報復として米軍の攻撃がより無差別的になったとの事です。


筆者が高校時代に触れた、先日逝去された大田昌秀著の「これが沖縄戦だ」も、今回の特集の参考文献の一つです。
歴史的事実を広く深く知り、現在進行形の諸問題の根源(過去を遡って)を探り、未来に向けた青写真を描く・・・。
そんな姿勢を一貫させた太田氏もまた鉄血勤皇隊の一員として肉親・知人・親友を失い、戦場を生き延びました。
氏の願っていた「完全なる恒久平和」は、氏の生前には訪れませんでしたが、希求する足を止めてはなりません。



今回の特集では、沖縄本島上陸に先駆けて攻略された慶良間諸島の悲劇や、伊江島等の離島の戦いは、スペース上、省略させていただきました。

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「 沖縄戦・現在の戦跡 」

那覇市北方の「おもろまち(地名)」にある水タンクのある場所が、かつてのシュガーローフ・ヒル。


急速な都市開発により、かつての激戦地だった高地や丘陵地帯の斜面は日々削られているとの事です。

こちらは現在の嘉数(かかず)台地、その頂上部が公園となっており、当時の日本軍トーチカが残されているとの事です。



「 在沖縄の米軍基地(キャンプ)名の由来 」



沖縄の海兵隊の基地名には2通りが存在し、例えばキャンプ瑞慶覧が、キャンプ・フォスターだったりですが、
全海兵隊基地をフォスターと総称するも、個別の基地名もあり、シュワ―ブ、キンザ―、コート二―、ハンセン等々があり、
これは沖縄戦で活躍し、武勲を上げながらも戦死した米海兵隊員7人を讃えてその名前を施設の名称にしているとの事です。
「何だか複雑・・・です。」



「 沖縄県営平和祈念公園 」


「平和の礎(いしじ)」の記念碑には、沖縄戦で亡くなった全ての人の名前が刻まれています。
記録にある沖縄住民はもとより、本土出身の日本軍兵士、米軍兵士、朝鮮半島出身者などです。
沖縄防衛のために本土各地から招集され、亡くなられた日本軍守備隊全員の出身地県別の慰霊碑も建立されています。

「 沖縄戦に於ける全戦没者数 」

沖縄県民死者:122、228人
県外出身者死者:65、908人

  米軍死者:14、006人
米軍戦傷者:72、012人
英軍(洋上)死者: 82人

ウィキペディアより(資料により死者数の増減あり)


今回特集の「沖縄慰霊の日」今年も高齢となった遺族が出席して、しめやかに催されたとのこと。
年老いた筆者母の慰霊祭への出席、毎年今年の出席が最後のなるのかなと、いつも心配しています。
沖縄戦の経験者、県民の1割程度に減ったとの報道に、歳月の流れを感ぜずにはいられません。

が、
そのおごそかな慰霊の儀の最中に怒号があり、遺族たちの悲しみや平和の希求の誓いに水を差されたとの事。
平和運動をかたった「辺野古反対派」の人々の心ない政治的示威行為は、遺族や亡き人々を愚弄するものです。
聞けば、その多くが本土出身者で構成されたプロの市民運動家集団とのことで、その事実に唖然としました。
youtube上で、彼らの現地での目に余る傍若無人な暴力的示威行為が記録アップされているのを確認しました。
故郷の人々が、
直情的な心情だけに流されず、広く深く豊かな知識と感性でこれからも現実と向き合えることを望むばかりです。



「 筆者ひと口・思い出話(その5):小さなお墓 」

筆者、若かりし美校時代の夏休み、学校保養施設の長野県上田市の山荘滞在中での出来事です。
食料調達のため、下方の上田市内へ向けて一人で坂道徒歩移動中。近道をするためジグザグ道を無理やり縦断。
草地に滑って転落した場所が人里離れた小さな墓地。ふと目前の小さなお墓に刻まれた墓標に目を止めました。
「何某何某」との姓名の後に、「昭和二十年・沖縄島にて戦死、」と刻まれた小さな墓と対面しました。
周りを振り返れば人ひとり居ず、筆者は周囲・眼下の本土の野山らしい美しい平和な光景を見渡しました。
こんな所からも我が故郷の南島にやって来て、その短い生涯を閉じてしまったのかと思うと身が震えました。
筆者、身近に咲いていた白い小さな花を見つけて一輪抜き取り、その乾いた花立てに差し、黙祷しました。
墓誌に刻まれた享年、ちょうど筆者と同年齢でした。



「 筆者あとがき(追記)」

「戦争」は、人類が古来より生み出し共有する最も醜い殺し合いによる解決手段です。
そして人類生活に国家・国境がある限り、克服することの出来ない永遠の究極暴力です。
神風の搭乗員も、その下で弾丸を打ち続ける機銃手も、手榴弾を投げる兵士も投げられた兵士も、みなその犠牲者です。
火炎放射器を浴びせる兵士も浴びせられた住民も、赤子の窒息を命じる兵士も命じられた母親も、みなその犠牲者です。
知性の集積の科学と政治と経済力を総動員して、欲望と殺戮を具現化する人類の愚かさには、心底 辟易してしまいます。
そんな現世や文明や国家がいつまでも続くのかと思うと、我々人類の地球上からの滅亡を祝いたくもなってしまいます。
「戦争写真」が果たす役割は色々あれど、我々人類の哀れさを気づかせてくれる契機を作ってくれると良いと思います。

全ての犠牲者たちに慰霊と鎮魂の合掌。全ての遺族たちに現世幸福を。
有史以来、人類が克服不能な大量殺戮「戦争」、今世紀にその国家間紛争解決の手段を変えるべきです。
何なら戦争をしたい当事者(政治家)同士だけでデスマッチや頭脳ゲームを、はたまたジャンケン等でも。
「体力・知力・運」の3要素で勝敗を決すると言う、幼き筆者らが中学生時代に考えた戦争に代わる解決手段です。
尊い無辜の命の犠牲も、莫大な戦費の出費も、貴重な資源の無駄使いも、地球環境の破壊も、全てが回避できます。
「国家」と「戦争(憎しみ)」を超えられた共存共栄できる人類生活が、近未来で切り開かれることを・・・。

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「ミュージック・ギャラリー(その238):慰霊の日スペシャル:鎮魂歌」

今回の当コーナー、慰霊の日の鎮魂歌として選ばせていただきました。
世界的に歌われることとなった稀代の名曲。南米アルゼンチンでは第2の国家と言われるほどに・・・。
山梨県出身の才能と感性の豊かな若き音楽家が作ったことに、オキナワ出身者として大感謝の至りです。
(そう言えば考えてみれば筆者、今までかつて沖縄県民であったことが一度もないことに気づきました。)
今回は音質に難があるも、「翻訳君」が訳してくれた直截な歌詞が気に入り、アップの運びとなりました。

「島唄」、ザ・ブーム(作詞作曲:宮沢和史)
" Shima-uta " / The Boom (1992)


次の曲は下の動画の中の1曲で、以前はyoutube上にもその秀逸なスタジオライブ判がありました。
今回、見当たらず、唯一存在するのがこの動画で、3曲メドレー判の冒頭の1曲目です。
2曲目はビギンの「三線の花」で、最後の曲は題名も歌手名も筆者の知らない曲です。
そのスタジオ録音判、メドレーの2曲と共にお聞き下さい。

「ちゅらうた(美ら歌)」、サーカス(作詞作曲:叶 央介、原 順子)、他メドレー2曲
" Chyura-uta (Beautiful Song) / The Circus, and the others




最後の曲は皆さまご存じの世界的規模のジブリ・アニメの「千と千尋」の挿入主題歌です。
美しく哀しい歌詞と旋律とハープの演奏が一体化していて、当代希に見る名曲の白眉です。
オリジナルの木村弓バージョンやナターシャ・グジー・バージョンなど悩みましたが、当動画の英訳詞が大好きになりました。
歌も淡々としていて、今回を締めくくるに相応しいと思いました。

「いつも何度でも」作詞作曲:木村弓、クロダ・ミホ
" Always with Me " From Movie " spirited Away, Miho Kuroda (Singing)

以上の曲たちが、今回の特集を締めくくることになりました。
今回、地元・沖縄の歌手は一人もおりませんでしたが、本土に憧れながら死んでいった亡き人々も多いかと思います。
そんな人たちにとっても、少しでも供養になれたのなら幸いです。

* * *

「水清く」

沖縄では遠く琉球の頃より、幸せは大海原の彼方「ニライカナイ」からやって来るとの伝説があります。
この言葉の語呂が筆者は気に入っていて、未来・担い・彼方・叶い・願い等の合成語のように感じています。
残念ながら79年前の海の彼方からは、「鉄の暴風」としての大厄災がこの小さな島を襲い、蹂躙しました。
あの地獄の戦場から79年、筆者の幼年時代だと終戦20年等と言っていたのですが、時の経過の早いこと。
戦後20年後にも関わらず筆者の幼年時代ですら、生活の周囲には激しい戦場の残り香が漂っていました。
砕けた小さな頭蓋骨を見つけたこともあり、また近くの城岳地下の深い防空壕内では数々の遺品が散乱、
黒焦げのメガネ縁や軍靴・茶碗・水筒・砲弾等。後日、米軍が危険物などを除去しに来てトラック満載に。
そんな筆者の幼年時代より歳月が流れるも、戦争のきな臭さは未だ島を覆い、また新たな火種もくすぶり始めて・・・。
空青く水清く光澄み渡れども、その行き先と人心見えず、沖で浮かびて揺れる縄小島。

現世の人々が心安らかに過ごし、黄泉(よみ)の邦人(くにびと)が安らかに永眠できる世が訪れることを願ってやみません。

「水清く澄み渡れども、その底に秘めたる過去や悲し南島」



以下は先ほどの「いつも何度でも」の英語詞の一節を記します。
サーカスの「美ら歌」や、ザ・ブームの「島唄」の一説も・・・。

・・・

So many tears of sadness,uncountable through and through,
I know on the other side of them I'll find you.

Every time we fall down to the ground,
we look up to the blue sky above. we wake to it's blueness, as for the first time.

Though the road is long and lonely, and the end far away, out of sight.
I can with these two arms embrace the light.

As I bid farewell my heart stops, in tenderness I feel.
My silent empty body begins to listen to what is real.
The wonder of living, the wonder of dying.
The wind,town,and flowers, we all dance one unity.

Somewhere a voice calls in the depth of my heart
keep dreaming your dream, don't ever let them part.

Why speak of you sadness or of life's painfull woes
Instead let the same lips sing a gentle song for you.

The whispering voice, we never want to forget,
in each passing memory always there to guide you.

When a miror has been broken, shattered pieces scatterd on the ground.
Glimpses of new life, reflected all around.

Window of beginning, stillness, new light of the dawn.
Let my silent, empty body be filled and reborn.


From " Spirited Away " theme song." Itsumo Nando-demo ( Always with Me) "

* 

ちゅら海よ
ちゅら風よ
ちゅら島よ
ちゅら唄よ

優しい 優しい この故郷が
二度と傷つかぬように

遥か 遥か 時を超えて
願いを紡いでゆく

君を想(弔)う



  このまま永遠に夕凪を・・・。

By 講師T こと 当真 英樹