第2次世界大戦後、筆者の故郷沖縄は本土から切り離され、27年間に渡る米軍施政下に置かれました。
沖縄の島々に進駐した米軍はこの地を地政学上・戦略上、最重要との認識で、この小さな島に根を張りました。
米軍がこの小さな島に名付けた軍事的コードネームは、「KEYSTONE OF THE PACIFIC」と言う呼称でした。
「太平洋の要石(かなめいし)」と言う意味で、pacificの語源にはpeace(平和)の意味合いも含まれています。
戦争の傷が冷めやらぬ島に米軍は夥しい物量を投じて、恒久的とも思われるほどの頑強な基地群を構築しました。
左:米軍や軍属、又はその家族や関係者所有の、自動車のナンバー・プレート。
そのプレートの下部には Keystone of the Pacific の文字が刻印されています。
右:当時の一般沖縄住民所有の自動車の、琉球と銘打たれたナンバープレート。
戦前の伝統的な田畑や宅地は強制的に接収され、広大な基地が次々と建設され、島は要塞化していきました。
沖縄本島で言えば、平野部のおよそ7割近くが米軍の専用地・施設となり、人々の生活を圧迫しました。
極東最大にして米空軍最重要の国外戦略基地「KADENA AIR BASE (嘉手納基地)」
左:現在の海兵隊・普天間基地(宜野湾市) 右:名護市辺野古のキャンプ・シュワ―ブ(1960年)
左:本島中部に所在する在沖米軍司令部。現在では日の丸・星条旗・国連旗が掲揚されている。
右:本島各地に広がる米軍基地の鉄条網。上の返し角度は刑務所とは真逆です。と言うことは?
金網の中(米軍基地側)が外で、道路側が刑務所の中と一緒で、確かに基地からの出入りは自由です。
1960年代初頭の在沖米軍基地の一角。
交通整理用の台と要員の陽除け帽姿が懐かしい光景で、右手には防風林のモクマオウの木々の植栽も。
このような施設・光景が、島を南北に縦断する1号線や本島中部を中心に至る所に点在していました。
米国の出典先に場所の記載なく不明ですが、筆者の記憶では「那覇航空隊」の丘陵地帯にも似ています。
大型軍用機が絶え間なく離着陸する嘉手納基地のフェンス際で、黙々と耕作する土地所有農民の姿。
政治的分断の中、朝鮮戦争が勃発し、更にはベトナム戦争も勃発、米国は泥沼の戦争へと突き進みました。
民主主義国家の仲間入りを果たした本土では、民主主義・基本的人権の下、著しい経済発展を遂げました。
故郷もまた基地経済と言う逃れようのない巨大システムに組み込まれ、生活の糧をそこに依存しました。
基地関連雇用やベトナム戦争の特需もあり、戦場跡の残り香漂う故郷は、次第に米国化されてゆきました。
復帰直前(70年代初頭)の沖縄・那覇市の1号線(Highway One、現・国道58号線)
右側通行の道路の中央部には、左側通行転換後の右折専用レーンが準備されています。
戦争勃発等の緊急時に滑走路としても使用可能なように真っ直ぐに造られ、歩道橋も認められませんでした。
そんな状況下、米軍車両による横断歩道を渡る歩行者の人身事故も度々発生。しかもその多くが無罪でした。
筆者も小5の頃、この1号線の横断歩道を横断中に米軍車両に轢かれて中学生が亡くなった直後の現場に遭遇。
3車線の他の2車線が赤信号で停車しているのに、西日で信号が見えなかったと供述した米兵が無罪でした。
基地の巨大化に伴って米軍による人災・事故も多発。小学校に戦闘機が墜落し、多くの児童たちが犠牲になったり、
ヘリから吊ったブルドーザーが落下して幼女が亡くなったり、その他、悲劇は無数にあり、補償もおよそ皆無でした。
米兵による小銭目当てのタクシー強盗等はそれこそ日常茶飯事で、交通事故死や性犯罪も多発・頻発していました。
それが祖国復帰前の、戦火の傷も未だ冷めやらぬうちの、治外法権・基地の島オキナワの厳しくも悲しい現実でした。
日本における主な米軍基地・所在地(左)。現在でもなおその全体の75%が沖縄に集中しています(右)。
この資料、いつ頃のかは不明ですが、筆者が知る限り、沖縄に関しては記載されていない基地もあります。
マーク無しですが、那覇西方の久米島や、本島南部東側・知念半島にもミサイル基地が所在していました。
施設返還後なのか、那覇飛行場やそれに伴うタンク群、天久の広大な家族住宅等もマークされていません。
正に過重負担の「要塞化された島」と言っても、決して過言ではありません。
* * *
「人々の暮らし」
庶民の台所「平和通り」、国際通りや南部交通の要の開南通りへと接続しています(多分60年代前半)。
ここら辺は筆者・小学生時代の友人たちの両親・家族が、洋品店や靴屋さんなどを経営していました。
野球帽を被った小学生の筆者がプラモを買いに、この中に混じって歩いていても不思議ではない光景です。
奇跡の1マイルと呼ばれた「国際通り」(左)、筆者の父の勤めていたデパートもその通り沿いにありました。
小~中学生時代は昼の光景がお馴染みでしたが、高校生の頃からはシャッターが下りた後の夜がお馴染みに。
右はコザ(現・沖縄市)の様子で、当時は頭の上に物品を載せて運ぶ老女やご婦人方が多数いました。
頭とカゴの間には円形のクッションをセットしていました。右下の幼女が可愛いですね。車は米国車。
ティーハウス「オーガスト・ムーン(8月の月)」(Tea House " August Moon")玄関は守礼の門を模しているようです。
市内若狭海岸近くの「波の上」にあった有名なティーハウスで、後に料亭へと鞍替えしました。
マーロン・ブランド主演のハリウッド映画「八月十五夜の茶屋」の舞台になったとのこと。
筆者・中1時のクラスにその料亭で踊り子をする米国白人との混血の女子がいて、授業中はいつも寝てばかりでした。
事情を知る先生達は大目に見ていましたが、男子達がいつも後から小さな紙つぶてや消しゴム片を投げていました。
休み時間に目覚めて頭を起こすと、その茶色の頭髪からそれらがこぼれ出て、キョトンとした表情をしていました。
その当時、有名な本土の学習雑誌でその彼女の特集が組まれ、実態とは異なる美談記事にみんなで唖然としました。
* * *
「那覇以北の景色:基地の街」
さて、ゴチャゴチャの下町・那覇から1歩、北へ足を伸ばすと・・・、
そこには外国のような異次元・別世界が開けていました。
那覇北方には、緑の芝生が眩しく輝く整然と区画された米軍家族の住宅街が大きく広がっていました。
上は那覇北方・天久(あめく)地区に位置する旧・米軍家族住宅地 。
その人口密度の違いたるや相当なもので、航空写真(小学校の白地図表紙)で見るとその大きな違い・対比に泣けてきました。
上写真の下方に1号線(Highway One)と、米軍住宅内で並走する道路が見え、更に下には密集した民間住宅地が・・・。
筆者中1の頃、仲間たちでエレキ・バンドを組みました。
筆者友人がエレキ購入のため、そこで英字新聞のバイトを始め、その配達と集金を時々手伝いました。
広い道路は自転車には恰好の走行コースで、仲良くなった米人男女子たちとスピード競争をしました。
子供たちの自転車はコースター・ブレーキ付きの流線形、筆者らは多段ギアー付きでいつも勝っていました。
新聞購読代の集金時には支払えない家族もいて、憧れの米国人の皆が お金持ちではないことも理解しました。
復帰後、この米軍住宅地は返還され、現在は那覇の新都心へと開発・変貌。経済的に大きく発展しています。
写真、おそらく旧1(現58)号線の宜野湾市の牧港周辺か、又は沖縄市の胡屋十字路近辺か・・・。
旧コザ市(現・沖縄市)を核として、本島中部周辺はさながら米国の植民地のような様相が広がっていました。
50年代のプラザハウス。駐車場の車は今で言うアメリカン・ビンテージ・カーだらけです。
筆者の幼児期の原風景でも自動車はこれらのような大きなアメリカ車で、今も大好きです。
左:50年代のロジャース百貨店・開店前の様子。 右も50年代でレンタカー・オフィスとの事。
米国南部やメキシコの田舎町のようですが我喜屋質店の看板と(左)、沖縄の象徴として米軍が愛用した鳥居型の看板柱が見えます(右)。
街頭に林立する看板の「ポーンショップ」は質屋さんのこと。二人の兵士は軍服から察すると海軍さん。
Aサイン・バーでの飲み代(しろ)や恋人への貢ぎ物の調達で、多くの米兵たちがお世話になりました。
筆者らも高校時代、コザの質屋さん行脚を度々敢行。米兵の質流れのエレキを物色・購入に訪れました。
左:金網の向こうは、もうアメリカ合衆国。広大な敷地には緑の芝生や様々な遊具が燦然と照り輝いていました。
日照り・断水が続き、週に一度の給水車待ちの不便な日々が続いたことも度々、筆者らは井戸水で何とかセーフ。
そんな折、金網の向こうでは自動散水シャワーが広大な芝生にまかれ、ビニール・プールで遊ぶ金髪児童らの姿も。
右:まるで西部劇のセットのような乾いた光景。留守を守り、子供が赤子をあやす姿は珍しくありませんでした。
60年代初頭あたりのコザ市のレストラン、その傍らでたむろするオカッパ頭の少女たち、ままごと遊びの最中かな。
手描き看板・網戸ドアの建物の裏は、木造瓦葺きかトタン屋根葺きが主流でした。手前のドブには鉄板グレーチング。
左:こちらも木造トタン屋根の洋書屋の「タトル商会」。入口両側のソテツがアクセントに。
窓の両側には、オシャレな陽射し除けの観音開きの窓が・・・。
右:カメラを持って昼間の歓楽街を観光する二人、そのいで立ちからは米軍兵士らしからぬ雰囲気が漂っています。
沖縄ペプシコーラの社屋。頭上には「こどもの日」のシンボルの鯉のぼりたちが、潮風を受けて元気に泳いでいます。
2階の窓は沖縄独特のコンクリート・ブロック製の格子窓仕様です。手前の灌木の丸い玉造りも良い感じです。
こちらは典型的なガソリン・スタンド。そのGSの事を、住民たちはカルテックスと言う代名詞で呼んでいました。
20世紀に活躍した米国の画家エドワード・ホッパーやベン・シャーンの絵画を彷彿とさせる空虚さが漂っています。
それにしても、建物前の路上にて座り込む二人の男は一体何をしているのでしょうか?
* * *
「アイゼンハワー大統領、来沖」
本土では米国大統領の初来日は1974年のフォード大統領となっていますが、復帰前の1960年にアイゼンハワー大統領が来沖。
琉球政府・米国民政府前に到着した大統領一行。オープン・カーで手を振っているのがアイゼンハワー大統領。
来沖や60年安保等の反対運動もあって、ライフル所持の大人数の米兵による厳しい警備の中、パレードが催されました。
右奥に見える建物が政府庁舎で、その進入右カーブ角に、日の丸と星条旗とを手に動員された小1の筆者がいました。
政府の各官庁街の横隣に在った筆者の小学校が政府から依頼を受け、日米両国の小旗を持って大統領を歓迎しました。
アイゼンハワー大統領・来沖を歓迎する垂れ幕を準備する米民間放送局(テレビとラジオ)のスタッフ。
「筆者、アイゼンハワー大統領と2度遭遇」
筆者自宅の近所の高台縁りに、ハーバービュー・クラブと言う会員制・高級社交場がありました。
米軍高級将校や米国民政府・琉球政府の高官らが集うクラブで、沖縄鹿鳴館とも称されていました。
下校帰宅後の当日(?)、自宅前を装甲車と大勢の武装米兵が進軍、その後を追うと、そのクラブに到着。
クラブの広大な敷地全てを米兵が背で囲み、中では最敬礼の米兵たち。その足元をぬって一番前に・・・。
そこにあの大統領の姿がありました。大統領を2度も見た沖縄の人なんてほとんど皆無の中、筆者と兄だけが遭遇。
要人たちが整列する駐車場とクラブ建物の脇には、緊急時脱出用のヘリコプターが用意されていました。
そのハーバービュー・クラブ、外観写真は見つからなかったのですが、珍しい写真を2種類 入手しました。
左写真は、そのクラブ内で催された米民政府幹部の送別会の様子で、まんま米国そのもののような雰囲気です。
右写真は、70年に同クラブで催された米ジャズ界の巨人デューク・エリントン楽団のインフォメーションです。
筆者叔母が同クラブでウェイトレスで働いていたり、広い駐車場でローラー・スケートを楽しんだり・・・、
停めてあった米国製高級車のボンネットのシンボル・オブジェを、スケートで転んだ友人が折ってしまったり、
叔母が愛人だった米人将校との別れ話の電話で筆者宅で涙ぐんだりと、色々な思い出の詰まった場所でした。
伝統的・沖縄家屋前を通過するチョッパー・バイク(撮影:沖縄の写真家、石川文洋氏)。まんま、イージー・ライダー。
筆者高校時代、チョッパー・ライダー達にピース(V)・サインを送ると必ずお返しのVサインが貰えました。
砂利道カーブ進入中のチョッパーにそのサイン出し、お返しで片手を放した元米兵、その直後スリップ・コケなんてことも。
「 オキナワからベトナムへ 」
嘉手納基地からベトナムへと出撃する世界最大の戦略爆撃機、B-52。
かつて沖縄には100機ほど駐留していて、そのサメのような黒い巨大な機体は離陸の際には遠く那覇からでも見えました。
爆弾を腹いっぱいに満載した機体は、なかなか飛び上がれず、那覇の西方沖でやっと機首を上げて南下していきました。
その行き着く先では、かつての東京や各都市のような阿鼻叫喚の地獄の空襲がベトナムの人々を襲っていたのです。
かくて戦火の被害者だった故郷は、今度は加害側の協力者となってベトナムの地に大量のナパーム弾や兵士たちを送り出したのです。
* * *
「Aサイン・バー連なる夜の歓楽街」
ベトナム特需に沸く60年代のコザの歓楽街。おそらく嘉手納基地前のGATE 2 STREET(ゲート通り)。
ネオンきらめく不夜城(60年代のコザのゲート通り)
こちらは昼間。ネオン看板が林立する60年代初頭のコザ市の歓楽街。多分BC Street(ビジネス・センター街)。
コザや那覇などの全米人相手の飲食店は、上写真のようなライセンスを取得し、営業していました。
AはApproved(許可済み)の頭文字で、建築・衛生・風紀などを米国側が厳しく取り締まりました。
米人専用の店舗もあったり、またコザでは白人街と黒人街に分かれ、米国本土が再現されていました。
筆者の通った中学校周辺にも米兵相手の歓楽街があり、正門前にはストリップ・ショーの巨大看板も。
「歓楽街で働く女性たち」
上2点は沖縄の女流写真家:石川真央さん作品をご紹介。NYの出版社から刊行された作品集より。
* * *
「ロック・ヒーローたち」
60年代後半、そんな米兵たちを相手に商売する歓楽街の中から、素晴らしいミュージシャンたちが続々と台頭します。
沖縄の多くのロック・バンドが、明日も知れぬ若い米兵たちに圧倒的な人気を博し、夜毎 熱演を繰り広げていました。
活況の歓楽街では、地元だけではなくフィリピンや遠く本土からも多くのバンドが出稼ぎにやって来ていました。
しかし、強烈なビート感を信条とする地元のバンドが、本場の米兵たちから多くの熱狂的支持を集めていました。
基地の町、コザ(主に空軍)や金武(海兵隊)では、ベトナム帰りのすさんだ荒くれ兵士たちをも慰めていました。
そんな時代の代表的ロック・バンドを幾つかを紹介します。
本土初上陸を果たした頃(75年)の「紫」。本土デビュー当時、人気・実力ともにNo.1でした。
但し、全国デビューした彼らのレコードの音は東京ナイズされてしまい、実際の彼らの音には程遠いものでした。
他のオキナワ発のバンドの音もそんな感じで、契約上の不満等もあって多くのバンドが解散、故郷へと戻りました。
とは言うものの、遠く欧州では口コミで人気に火が着き、当時の国産レコードでは異例の販売数を数えました。
左:当時 流行りだした野外ライブでのリーダー、ジョージ紫の雄姿。スピード感溢れるハモンド・プレイ、圧巻でした。
沖縄のロッカーには珍しく、米国はマサチューセッツ工科大学出の理論派ミュージシャンです。ファン層も空軍のインテリ多し。
こちらは荒くれの海兵隊たちに圧倒的人気を誇った強面揃い「コンディション・グリーン」の面々。
バンド名は米軍用語で「非常事態発令」や「戒厳令」を表し、ワイルドでならした彼らにはピッタリ。
リーダー、カッチャンのパフォーマンスは芸人魂の固まり。ギターのシンキとベースのエディは真に天才。
カッチャンはその人間性から米人にも高く評価され、今でも息子を連れて米国から来沖する元軍人たちも。
左:一見、怖そうなカッチャンの風貌ですが、実はとても愛情豊かで、筆者も大々好きな尊敬する人物です。
地元バンドマンたちの正に父親的存在で面倒見も良く、また多くの米人家族などとも交流していました。
右:伝説の「人間タワー(四重の塔)」、崩れ落ちても1秒たりともギターが途切れないと言う、正に神業。
彼らの常軌を逸したパフォーマンス、時に不発するも極上でした。終わると何故かいつも涙が零れ落ちました。
近年の野外ロック・フェスでのカッチャンの雄姿。当時のように米兵の肩車(当時は演奏終了後)で登場。
沖縄のロック・クイーン、喜屋武(きゃん)マリー擁する「メデュ―サ」。海兵隊キャンプ・ハンセンの女神。
コザや金武のライブハウス、又は万座ビーチなどの野外コンサート、まるで外国の危険地帯のように緊張しました。
筆者も高校時代に度々訪れましたが、その技量・音圧・熱狂ぶりは凄まじく、ロック本場の米兵たちをKOしていました。
筆者も含め、為政者たる米国に劣等感を持ち続けていた沖縄の人々を元気づけてくれた彼らは戦後初のヒーローでした。
他にも天才ギタリスト糸数ガンジーのキャナビス、天願賢盛のサジタリアス、寿、ジェットなど、群雄割拠の時代でした。
ちなみに、
今日ですら彼らの人気は高く、ネット上の動画のコメント欄では、多くの賛辞が米国のファンから寄せられています。
*
「筆者特別枠:デイリー・ギャラリー続編」 兼 「T講師のアート・ワーク(その18):沖縄写真」
筆者もたった18年間しかオキナワにいなかったとは言え、故郷に対する想いは筆舌に尽くし難いものがあります。
それはとても複雑な想いで、18年で止まった筆者の故郷での記憶や映像がそのまま保存されたからかも知れません。
復帰後ですが、筆者若かりし頃に撮った写真、オキナワン・ロックの雄姿をこの場を借りて紹介したいと思います。
復帰直後の70年代初頭、美校時代の友人3名を伴って里帰りした時の、野外ステージでの写真です(筆者友人撮影)。
過激なギター・プレイを披露するのはコンディション・グリーンの天才ギタリスト、シンキです。場所は万座ビーチ。
左写真の左側には、今は亡きこれまた天才ベーシスト&シンガーの若き頃のエディさんが写っています。
*
以下は、筆者が若かりし頃に撮影した沖縄のロッカーたちの肖像写真の一部を紹介します。
( Okinawan Rock Musicians Portraits By Hideki Toma, Originals: Gelatine silver Print, 1970's Mid to Late)
天才シンキのポートレイト。左は東京の日比谷野音にて。右は沖縄ムーン・ビーチにて。
ワイルドなポーズは、これまた天才ドラマー兼ボーカルの「エツ」さん(コンディション・グリーン時代)。
同じく「エツ」さん。恋人と共に。
コンディション・グリーンのリーダー・ボーカルのご存じパパ「カッチャン」と、その家族。
左は、伝説のロックバンド「紫」のリーダー、キーボード奏者の「ジョージ紫」さん。右は、メデュ―サの「喜屋武マリー」さん。
下の映像は、筆者撮影(70年代後半)のスライドからプリントした写真を、更にデジカメで複製したものです。
70年後半頃の万座ビーチで行われた野外ロック・コンサートの様子。
復帰前の異常なほどの熱気・盛り上がりには遠く、リラックスした状態で音楽を楽しんでいました。
とは言っても、酒に酔った血気盛んな者同士でひと悶着も。ステージ脇の巨大なPAの前で口論、その後 殴り合いに。
「 ドサクサ紛れのチョイ出しショット」
左は嘉手納基地の滑走路が望める高台スポット「平和の丘」、命名の意味不明。軍用機マニアな観光客の聖地。
右は宜野湾市の牧港か大謝名周辺のオーディオ・ショップ(450Wは凄すぎ!多分ライブハウスのPA用では?)。
また機会があれば、整理して故郷のチョイ過去の写真をアップしたく思っています。
* * *
「 KOZA RIOT (コザ暴動)」
話は少々、過去にもう一度戻って・・・
傷の癒えぬ戦後も蓄積され、米国は新たな戦場へとその矛先を向け、基地は日々強化されていきました。
一方の祖国日本では民主主義の下、戦後の著しい経済発展を遂げ、平和な日々を謳歌していました。
しかしその間、筆者の故郷では基本的人権さえ認められず、軍事優先の圧政が人々を蹂躙したのです。
戦後、米国がもたらした民主主義ですが、故郷ではダブル・スタンダードの名ばかりの民主主義でした。
法や人権はいともたやすく踏みにじられ、個人の命や尊厳もいともたやすく傷つけられ、奪われました。
やがて多数の基地従業員たちを中心に復帰闘争が展開され、その代償として自らの職を失っていきました。
無辜の住民を被害者とした凶悪な犯罪も多発し、しかもそれが無罪扱いとなって、人々の憤りを買いました。
やがて救いのないそれらの蛮行が人々の中で鬱積し沈殿し、そのはけ口が爆発する日がやって来たのです。
それは小さな自動車事故が発端でした。加害側の米人が米国憲兵によって現場から保護・逃避したのです。
積もりに積もった人々の怒りが、それをきっかけについに爆発しました。1970年(筆者・高2)の事です。
一旦 火の着いた群集心理は暴走するのが常です。通りかかった米人の乗用車が、実に82台も焼かれてしまいました。
暴動翌日、現場周辺で警戒にあたる米軍兵士たち。その沿道で不安げに見守る子供たちの姿が痛ましく感じられます。
日頃、沖縄の現状を顧みない本土報道・政財各界でもそのニュースを受け、大きな衝撃が走ったとのことです。
その報に接し、当時の政権中枢の政治家は「何てことをしてくれたのか!」と激怒したとのことです。
米国との外交関係のみを慮(おもんばか)るこのような認識が、当時の本土では常識的だったようです。
しかし、皮肉にもその事件が契機となり、日米両政府は沖縄の祖国復帰に向け、本格的に動き出しました。
1972年
沖縄が日本に復帰されることが日米間で合意・批准、当時の佐藤首相がその功績でノーベル平和賞を受賞しました。
上は「沖縄祖国復帰」を祝う記念切手(右:日本郵便発行・左:琉球郵便発行)。
「守礼の邦」と「平和の象徴の白い鳩」、簡単そうで実は重い理想のシンボルです。
上は、筆者所有の琉球政府発行のパスポート 。
正に45年前の4月29日に那覇港を発ち、3日後の5月1日に東京港・晴海ふ頭に上陸、帰国(!)しました。
45年前の5月15日。東京は終日のさみだれ雨でした。
友人たちの尽力のおかげで高校を無事卒業した筆者は、4月末に兄を頼ってパスポート片手に船で上京しました。
最後の琉球切手とのことで本土からバイヤーたちが大勢来沖、上の切手購入の2日間の行列バイトで船賃を得ました。
到着した晴海ふ頭での下船の際、入国審査官から「帰国を証する」旨のスタンプがパスポートに押されました。
東中野のマンションの8階、TVでは故郷沖縄の復帰特集番組が流れ、立ち合えなかった筆者は早くも疎外感に。
照明に浮かんだそぼふる雨の無数の雫が放射状になって、夜のベランダの筆者の顔を洗い流してくれました。
祖国復帰に人々が歓喜する中、同年・正に復帰当日の5月15日に撮影された写真とのことです。
出典元・英文のキャプションによると、「米兵のタクシー強盗により夫の命を奪われた未亡人(widow)」とあります。
設えられた仏壇には「亡き夫」の遺影が飾られており、鴨居右端には子供の頃、良く目にした祈る少女の姿も・・・。
時は変わり、世は変われども・・・、未だ島の辻々でお線香の煙香漂い、淀み、立ち込め・・・。
一人一人の中で、悲しみ・苦しみ・痛みは内蔵され・・・。現世にて幾ばくかの癒しや慰めに出会えることを・・・。
* * *
「終わりに」
沖縄の戦後史を、駆け足で写真を通して記してみました。
記したいことはまだまだ沢山ありますが、紙面上ここら辺で敢えて止めておきました。
掲載したかった写真も数多くあれど、データが小さかったり、ブロックされていたりで、やはりこの位で止めました。
*
筆者はここ昨今、故郷の様子にある種の異変・違和感を感じています。
それは故郷を遠くにしてしまった筆者が歳月を経て、いつの間にやら変節してしまったからかも知れません。
それは、故郷の方角から聞こえ出てくる「オール沖縄」と言う言葉で、聞き捨てならない違和感を覚えます。
でもそれは筆者だけではないらしく、帰郷時の友人・知人たちも異口同音に違和感を持っているとのことです。
「普天間基地移設」に端を発した「辺野古新基地反対闘争」は、現知事を筆頭に地元マスコミぐるみで声高です。
報道映像の反対派市民と呼ばれる人々のプラカードの「全基地撤去」は余りにも短絡的で、変容甚だしい限りです。
それが県民の総意等と、いつしか反米闘争のような様相が創り出され、地元マスコミも扇動しているかのようです。
戦中戦後の故郷沖縄は確かに多くの辛酸を舐め、多くの血と涙を流し、未だ続く苦痛と悲痛に日々喘いでいます。
でもだからと言って、日本政府憎し、米国や米軍憎しで、その対話すら拒むことは決してプラスにはなりません。
これまで莫大な基地交付金を受けながら、突然ちゃぶ台をひっくり返し反故にするのは大人げなく見苦しい限りです。
太田昌秀・元県知事の現役時、政府主催のクリントン大統領来日・招待晩さん会での大田氏の行動が印象的でした。
晩さん会終了直後、退席する大統領を追って一人離席、笑顔で握手を求め、声をかけられた太田氏の行動は立派でした。
そこには県民の悲しみや願いを痛切に知る代表者としての責任と希望とを背負った大田氏の人柄と気概がありました。
残念ながら、
現在、普天間問題を万事解決する術を持ち合わせ得る為政者は、沖縄・日米いずれにも存在してはいないと思います。
「戦争放棄・平和国家」の理想は理想として、現実にのしかかる問題に目を背けることなく、感情的・扇情的にならず、
「守礼の邦(国)」の看板を汚すことなく、今を生きる子供たちのためにも危険を一刻も早く除去することが肝要です。
残念ながら、故郷や本土の周囲には大きな脅威が幾つも立ちはだかっており、潜在的な危機的状況だと筆者は思います。
気がつくと近隣・非民主大国の深潜野望の属国となり、「琉球自治国」等と称されないよう、しかと冷静になるべきです。
現県政 並びに地元各マスコミは恣意的に民意を扇動することなく、中立公正で良質・冷静・正確な情報を提供すべきです。
沖縄祖国復帰45周年、
多くの米軍基地が未だ存在するも、時折帰る故郷は大きな変貌を遂げ、復帰前とはまた違った活況を呈しています。
治外法権下、基本的人権も希薄だった故郷オキナワは、今 数多くの来訪者を迎え、多くの人々に癒しを与えています。
復帰前を知らずに育った若者たちも故郷の芸能文化の濃さ・良さを再認識し、世界に向けて屈託なく発信しています。
観光で訪れる人々も内外共に増え、4年連続して新記録を達成し、その人数1年で実に780万人に達しているとのこと。
しかも喜ばしいことに、そんな中で多くの来訪者たちが2度以上のリピーターだとの嬉しい数字も出ています。
我が故郷沖縄が「守礼の邦」として、これからも数多(あまた)の祖先に恥じない礼節の島で在り続けるために、
危険回避の具体的手立てを打ちつつ、当事者間で粘り強く紳士的に真摯に対話を続けていくことを願っています。
大戦終結後、占領国アメリカは民主主義を祖国日本と遅ればせながらも沖縄にももたらし、
復帰した祖国日本は失われていた基本的人権を取り戻してくれ、経済復興の資金を投入し、
世界から慕われる民度の高い、心やさしい穏やかな人々の暮らす美しい国と島になりました。
「守礼の国」の門扉は、これら恩人の国や人々にこそ快く開け放たれて然るべきなのです。
それが戦中戦後を通して多大な犠牲を払った故郷沖縄の立脚点だと筆者は考えています。
それが戦場の残り香漂うオキナワで育ち、沖縄を遠くで強く想う筆者の大きな願いです。
沖縄祖国復帰45周年、筆者はその歴史的事実を心の底から祝いたいと思います。
筆者が故郷オキナワの、あの時代に生を受け、素晴らしい人々と出会えたこと同様に。
* * *
「ミュージック・ギャラリー(その273)」 「沖縄・祖国復帰45周年記念、大特集」
今回の当コーナー、やはり長かった上記タイムマシン・トラベルの続きの「音楽」旅行です。
もう食傷気味だなんて言わず、もう少し(特大号ですし)お付き合いいただければ幸いです。
筆者・中~高校時代、KSBKラジオと言う英語放送を度々聞いていました。まだ国内では販売されていない曲を聴くためです。
ロック音楽全盛期、そのラジオから洪水のように流れ出でるヘビー・ローテーション曲の数々、故郷の風景に良く似合っていました。
C.C.R, J・エアプレイン、J・ヘンドリックス、ドアーズ、ステッペン・ウルフ、ゲス・フー等々・・・、
そんなバリバリのロックに混じって、小休止でも促すかのようにこの静かな抒情歌が時折混じりました。
誰が歌っているかも知らずに、いつの間にか侵入し、誰が歌っていたか知らないうちに聴かなくなって、
ましてやそれが筆者が中学時代に遊んだ海岸、波の上を歌っていたことなんて、近年になって知りました。
ただ、生演奏のあるクラブの休憩時間中にレコードがかかり、この曲が流れてくることが良くありました。
この曲を聴くと、そんな時代の故郷の風景が、生ぬるい風を伴って艶(なま)めかしく蘇ってくるのです。
冒頭部分には筆者が愛聴していたKSBKの放送をも録音され、米国人が投稿した筆者には懐かしい音源です。
「ロード・トゥ・ナミノウエ(波の上慕情 )」/ ロニー・フライ
" Road To Naminoue " / Ronnie Fray
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KSBK was the 880/AM civilian radio station which was located right on Highway One Naha Okinawa ...
Miraculously This tape was recorded by Terry Calhoun during his stay in Okinawa (69-70)..
DJ's Harrigan hart was on the air.. This kind of eternal beautiful song Namanui reminds us more like home than home..
Nicknamed Jumbo Jet B-747 have finished the last flight Tokyo / Naha past March..
Then disappeared in the Japan sky with unforgetable memories..
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上記に登場のロック・グループ、コンディション・グリーンのメジャー・デビュー盤の中から1曲を。
彼らの事を書いたら、ページが幾らあっても足りない程のエピソードに満ちているので、ここは音楽だけを。
この曲、リーダーのカッチャンはボーカルをベース奏者の故エディに譲り、ここではコンガを叩いています。
フォービート・ラテン・ロック的なアダルトな歌と演奏、スタジオ1発録りながら分厚い貫禄ある空間が秀逸です。
ではお聞き下さい。
本土では(今もなお)有り得ない骨太ビートによる艶っぽいロック・サウンドを。
コンディション・グリーン、「シュガー・ベイビー・グッド・タイム」 (1977)
(Okinawan Rock Group) CONDITION GREEN, " SUGAR BABY GOOD TIME ", From their 1st Album
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筆者は故郷でも東京でも彼らのライブを数多く体験しました。
カッチャンのボーカルには愛があり、シンキの七彩無限変幻ギターは正に神がかっていました。
但し沖縄と東京の演奏の間には何か溝があって、東京ではその魅力が充分に発揮できていませんでした。
内弁慶と言うわけではないでしょうけど、東京でのライブではいつも欲求不満になったものです。
しかし、70年代の国連主催のジャパン・デーの際には、
当時の数多の国内人気ロックバンドを差し置いて、C・グリーンと紫の沖縄の2グループのみが米国主催者側より選出、
彼らをおいて他に通用するバンドなしとの太鼓判が押され、C・グリーンが渡米、N.Y.とディズニーランドにて公演し、
大好評を博し、加えてL.A.の著名なライブハウス「ウィスキー・ア・ゴーゴー」でも熱烈歓迎されたこともあります。
その際、各方面より渡米を勧められたのですが、大の故郷好きな彼ら、断ったと言うエピソードも残されています。
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さてお次は当時の本土の音楽界を席巻した人気・実力共にNo.1のグループです。
卓抜した高い演奏技術によるスリリングな世界は、現代においてもなお他の追随を許すことはありません。
当時、無名だった和製のロックですが、遠く欧州で口コミで伝わり、彼らのアルバムが異例のヒットにも。
テンション・マックスな渾身演奏、今聞いても新鮮です。雄大なジョージ紫の鍵盤もチビのドラムも圧巻です。
最後に、同曲で鬼気迫る演奏を披露した比嘉清正さんのギターが、投稿者米人の手でオマケで入っています。
紫(ムラサキ)、「メイズ(迷宮)(Instrumental)」 (1975)
(Okinawan Rock Group) MURASAKI, " MAZE " From their 1st Album
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その圧倒的な力量による音圧、正にロックの醍醐味の一つです。
中間部のスローなインタリュード、目を閉じて聴いていると故郷の雄大な美しい空と爽快な風が蘇ってきます。
しかし彼らもまたレコードの溝には刻めない譲れないサウンド・ポリシーが頑としてあり、契約上ままならず、
結局そのもどかしさは最後まで払拭できず、東京の音楽業界には早々と見切りをつけて帰郷してしまいました。
ロックならではの色艶あるビートが信条の沖縄のロッカーたち、残念ながら東京式の価値観に染まれませんでした。
筆者も故郷での彼らの生の良さを知る者の一人として、レコードや本土公演での音にはいつも歯がみしていました。
ビジネスに自らの魂を売らずに故郷に帰った彼らを待ち受けていた現実は、米軍と沖縄の未曾有の不景気でした。
時は人を待たず、ただ移ろっていくのみです・・・。
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ここからは、常夏沖縄の民謡などを・・・。
民謡と言えばこの曲と言うような余りにも定番曲ですが、敢えて・・・。
以前紹介済みの動画です。
バックの歌や演奏は不明ですが、レゲエ・フィーリングが快感で、子供たちの踊りも可愛くて秀逸です。
Hanayakara(はなやから)、「安里屋ユンタ」
Hanayakara , " Asatoya Yunta "(OKinawan Fork song)
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さすがに歌と踊りの芸能の島だけはあるエネルギーとオーラに満ち溢れていますね。
健気さ、明るさ、正にシマンチュぬ宝。
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次の動画も以前 当コーナーで紹介済みですが、こちらも敢えて再びの登場です。
BEGIN(ビギン)、「シマンチュぬ宝~涙(なだ)そうそう(ライブ・メドレー)」
BEGIN, " Shimanchu-nu-Takara "-" Nada Sousou " (Medley)
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もう故郷に帰って、風に吹かれつつ オリオン・ビールでも飲みたくなってしまいます。
次もまたビギンの曲で、今回の沖縄祖国復帰記念特集のラストを飾るに相応しい曲です。
彼らの持つ虚飾を排した自然な度量の大きさには、いつも脱帽させられます。
「かりゆし(嘉例吉)」とは沖縄の言葉で、めでたさを表現する言葉です。
BEGIN、「かりゆしの夜」(後日追記:旧・広島市民球場で、さだまさし氏コンサートのゲストとの事です)
BEGIN, ”Kariyushi-nu-Yuru (Happy Night) " (Live at west Japan )
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こちらもまた天才・大人物エイショー君、その包容力ある豊かな声量、圧巻です。
さすがに素直な彼らの魅力を知るファンたち、それこそ文字通りの老若男女が大挙 聴きに見に来ていますね。
恥じらいながらも慣れぬカチャーシー(即興踊り)を踊る観客方、見ているこちらも嬉しくなってしまいます。
祖国復帰45周年のめでたき日の、(勝手ながら)ラスト・テーマソングとさせていただきました。
なかなか妙味ある取り合わせでしたが、お楽しみいただけたのなら幸いです。
「(再びの)最後に 」
筆者のオキナワ暮らしは、たったの18年間で終わってしまいました。
が、その短い歳月は以降の45年間よりも深く濃く、筆者の心の深淵で未だマグマ溜まりのように燃え盛っています。
思い返せば情け深い島で、年齢・性別に頓着なく人々は暮らし、未熟だった筆者にも暖かく接してくれました。
高校時代の一時期、訳あって心身共に沈没寸前の筆者を多くの男女友人・クラスメートたちが助けてくれました。
それこそ寄ってたかって、執拗なほどのお節介行動で、世捨て人志望の筆者に救いの手を差し伸べてくれました。
その恩人たる多くの友人たちがいたからこそ、今の筆者は幸せな日々を送ることが出来ていると考えています。
「青春映画」のような世界は現実にはあり得ない等と言う意見を巷でよく耳にしますが、現実に存在しました。
少なくとも、筆者の育った南島では青春映画のそれ以上の友情の物語が、筆者を中心軸として展開されました。
「事実は小説よりも奇なり」は真実です。
そのうち、その顛末を記すことになる機会が訪れるかもしれません。
故郷沖縄と人々に大々感謝。
また最後になりますが、米兵の犯罪に泣く故郷ではありますが、多くの米軍将兵は個人的には善良な人々です。
彼らの多くもまた母国では弱者の環境に属する人たちも多く、軍歴で大学進学の道が開けたりもするそうです。
筆者が故郷で知り合った米兵達は、その多くが親しみ深い素朴な人達であったことも記しておきたいと思います。
「沖縄祖国復帰45周年記念大特集」、長くなりましたが、これにてお開き。
故郷沖縄に永遠の平安を。
人々に現世での癒しと安息を。
By T講師こと 当真英樹
最後までお付き合いいただいた方々、お読みいただき ありがとうございます。