2017年3月6日月曜日

名作美術館:師弟の金銀・紅白梅図

月曜日・雨

「名作美術館(その213):師弟の金銀・紅白梅図」

当コーナーでは久々の江戸絵画の登場です。
今日は時節柄にちなんんで「梅」の花の特集です。
作者は江戸時代に活躍した琳派の絵師・酒井抱一で、作品は御覧のような「紅白梅図屏風」です。
琳派とは言っても江戸の絵師集団「狩野派」等とは違い、個人的に尾形光琳を私淑した人物たちの事です。
師とされる光琳とは時代も違い、直接的な繋がりは無く、後世にその画風を知って影響された絵師たちです。
今回はその代表的絵師である酒井抱一の描いた「紅白梅図」を取り上げてみました。


酒井抱一「紅白梅図屏風」、紙本銀地著色、六曲一双、出光美術館

「左隻の白梅」(ネット上に右隻の紅梅の上質画像はありませんでした。)
画像、撮影時のライティング(照明)で、残念ながら白い梅の花々が背景の銀地に埋没しています。

江戸時代、金は太陽の光を、銀は月の光を象徴しており、そう言う意味では抱一作品は夜景なのかも知れません。
またその寒色系的な画面からは、春の到来よりも冬に在って先駆ける梅の持つ生命力を描いたのかも知れません。
またはネット上の他のブログに記されているように、師の光琳を太陽、追随する自身を月に見立てていたのかも。

「三寒四温」の季節の変わり目・狭間にこそ相応しい冬と春が混在・調和しているような厳しさと逞しさの競演です。

* * *

酒井抱一が師と仰ぐ琳派の祖・尾形光琳の「紅白梅図屏風(国宝)」をアップしないわけには参りません。
ついでと言っては語弊がある、あまりにも大きな日本美術の傑作・人類の宝です。

尾形光琳、国宝「紅白梅図屏風」、MOA美術館

下図はMOA美術館で監修・推定復元された当時の変色・経年変化前の屏風の様子を再現(上)。


画面中央部の流水には銀箔が貼られており、その表面に硫黄を塗ると化学変化により黒変するとのこと。
その変化を光琳が積極的に利用して、あの有名な渦巻模様を描いたのではないかと推量されています。
絵画のみならず、多岐に渡る各種工芸にも精通していた光琳ならではの独特な技巧かも知れませんね。



下は筆者撮影の紅白梅。枝振りや樹形、またその背景を含め、絵になる梅の木にはなかなか出会えません。



梅の木の姿や背景はともかく、撮影時、可愛いメジロに出会えるだけでも嬉しいものです。
但しその動きは素早く、反射神経の鈍い筆者には到底撮影できる相手ではありませんでした。
広角レンズだとその姿あまりにも小さく、望遠だとあまりにも手ブレひどく、手に余る命。
「薄寒くも仄温かくもあり、眩しくも薄暗くもあり、人の世と里の春三月」

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その264):追悼特集」

筆者・若かりし頃に出会った音楽家がまた一人、この世を去りました。
遥か昔日の中学時代に流行したグループ・サウンズの数々のバンドにハマり、大好きになりました。
ザ・スパイダースのギタリスト(兼・作曲家)として、時に前面、時に縁の下の力持ちとして活躍。
独特の髪形や愛用ギターは、筆者も大好きだったストーンズのブライアン・ジョーズの影響でした。
ソロのこの曲はカントリー・タッチの歌唱法で、イントロではC.S.N&Y風なハモンドが印象的です。
飄々とした風貌や生き様が同時代のみんなから慕われ、若い音楽家世代にも支持されてもいました。
代表曲やその引き出し多く、選曲に色々と迷いましたが、筆者が最も愛唱したこの曲を選びました。

「どうにかなるさ」、唄・詞:かまやつひろし、曲:山上路夫(1970年)

中学時代にはエレキ・バンドで彼の曲を熱唱し、フォークの洗礼を受けた高校時代には生ギターで愛唱したものです。
スパイダーズでの「バンバン」「フリフリ」でのキッチュ・ブルージー・パンクなギター・リフと歌詞。
ソロでの「君はゴロワーズを吸ったことがあるかい」「我が良き友よ」等での間口の広い抒情世界。
ちょうどその頃、偶然にもフランス煙草のゴロワーズにもハマり、タイムリーさに驚いたものです。
「どにかなるさ」のミディアム・シャッフル・ワルツ、生ギターで久々に口ずさんでみるつもりです。
懐かしき70年代、暖かき昭和の香り、春を待たずに今また遠のき・・・。
ムッシュと呼ばれた自由人、その奥方もまた数日前に旅立たれたとのこと。
冥福をお祈りいたします。

* * *

ついでの「ミュージック・ギャラリー:懐かしのCMソング」

上のかまやつひろし氏の「どうにかなるさ」と共にセットで歌われていた曲をもう一つ紹介します。
こちらもグループ・サウンズのザ・モップスのボーカリストだった故・鈴木ヒロミツ氏の名曲です。
レイドバックした歌を聞かせてくれるCF内のロン毛・ボーダー・オーバーオール姿の彼が当人です。
このCM、当時はとても話題になり、若者たちにその緩さ・脱力感が一種の憧れにもなったものです。
学生運動や反体制で熱く燃え上がり、やがて挫折した時代の若者の心のささくれを癒してくれました。
筆者らも、キャンプやビーチ・パーリー(故郷ではパーティーの事をそう言ってました)で愛唱しました。
どうぞ、御覧(お聞き)ください。

「気楽に行こうよ」、鈴木ヒロミツ、モービル石油TV・CM(1971年)


高校時代の夜や日曜日、試験勉強と言ってはみんなで集まり、その実はドライブを楽しんでいました。
その行き先は、まるで外国のようだったコザの町や、女子宅や、海辺や、幽霊の名所だったりでした。
夜中に誘って連れ回した女子など、家族が心配して捜索願いが警察に出され、大目玉を食らった事も。
遠方・深夜にガス欠やキャブ不調等に時々見舞われ、色々な場所で色々な人々のお世話になりました。
CMさながらに、サトウキビ畑の続く星降る田舎道を車の後ろをひたすら押し続けたこともありました。
けん引していただいたピックアップのヘッドライトと運転手さんの顔が神々しく輝いても見えました。
そんな明け方に、空腹でヘトヘトになった筆者らにハンバーガーを御馳走してくれた米兵もいました。
その若い米兵の車がチョー・オンボロの軽で、座席が何とリンゴ箱、床には穴が空き、道が見えました。
そんなビンボーなのに、気前よく笑顔で筆者ら5名全員にコーラとバーガーをおごってくれたのです。
( 後で泣いたのでは・・・😭。)

昔日の「若気の至り」とは言え、広い大きな心で接し助けてくれた多くの島人と米人たちに感謝です。
故郷の南島が、かつてオキナワ(Keystone of The Pacific)だった頃の思い出です。

By ( 向こう見ずでノンビリ屋だった)T講師 ( エッ、今でも?)

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