2017年7月3日月曜日

咲く花散る花、いつも何度でも

月曜日・曇り

筆者、前回の特集の内容や情緒を、少なからず今も引きずって日々を過ごしています。
今回の当コーナーも、前回の「沖縄慰霊の日」特集の番外編と言えるかも知れません。
今回は「咲く花、散る花」を人生やその命の象徴としての「見立て」で取り上げました。
それは、
数多(あまた)の戦争犠牲者に想いをはせる上でも関連性のある我が国の伝統的死生観が反映されていると思います。
戦前の軍国教育に於いても象徴的に桜の散り方を潔しとし、国家への個人の犠牲的忠誠を鼓舞した史実もありますが。
だとしても、
典型的ステレオタイプなようで少々気が引けますが、筆者の視覚的情報把握の際の根源にそれは頭をもたげてきます。

「デイリー・ギャラリー(その63)」

「 森羅万象 ギヤラリー(その18)」

「咲く花、散る花」

「咲いた睡蓮と、散った夾竹桃の花」

筆者自宅庭の池で撮ったただの一輪の睡蓮ですが、上記のような価値感が筆者の中で自動的に湧き上がります。
美しく生命力に満ち溢れ、輝いている張りのある睡蓮の傍らでは、満開後に散った夾竹桃の花が朽ちてゆきます。
その唯一回限りの生命活動の環に終止符が打たれる瞬間に、他人事ならぬ感情移入をしてしまう今日この頃です。
知人・家人・縁者たちの死や、自身にやがて来たる行く末が暗示されているように見てしまう歳になった証しです。

左:自宅庭の桃色の夾竹桃。            右:アトリエの白い夾竹桃。

花々は満を持して次から次へと満開、その後、美しさのピークで散り往く花びらたち。
命の儚さをつい投影させて見てしまいます。生命も季節も人生も、栄枯盛衰を繰り返して往きます。
与えられた寿命を全うするものは極く少数で例外であり、その前に果てるもの数多(あまた)です。
「戦世(いくさよ)」に散った人々が味わえ得なかった幸福の実感を噛みしめる薄仄かな季節です。
この幸せな時代に生まれ落ちた人生に感謝し、たった一度のそれを味わいたいと思う今日この頃です。

* * *

「ミュージック・ギャラリー(その239):鎮魂歌(その2)」

今回の当コーナー、前回の最後を飾った曲からの繋がりであり、その別バージョンをお借りしました。
ジブリ・アニメ「千と千尋」のテーマソング「いつも何度でも」の詞の世界に焦点を当ててみました。
昨今の巷に溢れるただセンチメンタルなだけの詞や曲ではなく、哲学的命題も提示して感じられます。
今回は残念にも、ご本家の木村弓バージョンがブロックされていて当コーナーでの紹介を断念しました。
その代わりと言えば語弊がありますが、もう一方の当事者である作詞家自身の歌声をお借りしてきました。

「いつも何度でも」、作曲:木村 弓、作詞・歌:覚(かく)和歌子
" Always with Me ( Itsumo-Nandodemo ) " From " Spirited Away "

世界的にもヒットしたジブリ・アニメ作品ご存じの名曲ですが、詞を書いたご本人の歌う歌。
淡々とした歌唱や流れゆく八ヶ岳周辺の森羅万象の景色、最後の青空と風音が良いですね。
作詞家は歌も歌うシンガー・ソングライターで、詞を依頼した木村弓さんとは同業者です。

作曲をした木村弓さんから依頼されて紡いだこの詞、ほんの十分程で出来上がったとのこと。
しかも作詞中に「自分が書いているのに、自分が書いていない感じ」の体験をしたとのこと。
名曲や傑作とは正にこう言うもので、多くの芸術家たちが等しく経験する「神からの啓示」かもしれません。


次も同曲のカバー判です。動画冒頭の仄かな灯火(ともしび)と、不動の青空が気に入りました。
もちろん淡々歌唱と洞窟の中で水滴が滴り落ちるような残響を伴った演奏(シーケンサー?)も。

「いつも何度でも(カバー)」、ひまわりコンチェルト(歌:Mako、演奏:Bamiko、)


こちらはyoutube上で見つけた同曲の異色判です。

「いつも何度でも(カバー判)」、フランスの教会聖歌隊
Voyage de Chihiro  / "LA MAITRISE BOREALE ", FRANCE, (2005)

フランス北東部リース近くのモンティ二―・アン・ゴエルと言う教会の聖歌隊の少年少女の歌う「いつも何度でも」です。
天使のような子どもらの透き通った歌声と、教会独特の高い天井の残響をうまく活かして溶け込むハーモニーが素敵です。
どのような経緯で日本語のまま歌われたのか不明ですが、幾度も反復練習しないと覚えられなかったことでしょう。
またその編曲、パッフェルベルのカノンやアルビノ―二のアダージョ等を彷彿させるような和声の進行が秀逸です。
まるで教会音楽のような、また別の命を欧州で吹き込まれた感じです。
最後に沸き起こるアンコールの拍手に自らもつい加わってしまいます。

* * *

「生と死の狭間で」

この曲、死に際しての魂の離脱を暗示しているかのようで、その辺りも筆者のお気に入りの理由の一つです。
今は亡き筆者の父が生前に似たような体験をしたそうで、シベリア抑留時に一度死亡を宣告されるも生還し、
その時の様子を時折語っていて、父の戦友たちもその不思議体験が事実だったことを証言していました。
いわゆる俗に言う「近似死体験」で、世界中の多くの人々がそのような体験の後、息を吹き返しており、
科学的・医学的な論証では説明のつかない事象があり、幻覚などでは片づけられない例があるとの事です。
詳しくは医学博士レイモンド・ムーディーや、ダニオン・ブリンクリーの臨死体験研究・著作が有名です。
父がその時、息を吹き返さずにそのまま他界していたなら、筆者はもちろんこの世に存在しなかった訳です。
そんな経験を経て現世へと戻った父、死ぬことは怖いことではないと悟ったと、生前に口にしていました。

いずれにせよ、この詞の提示する世界は単に文学的情緒のみならず、多元的な価値を考えさせる深い詞の世界です。
「死」を遠ざけるのが日常ですが、このような詞の世界でそれを意識させてくれることは有意義なことと思います。

三次元的大気の中に内包される、過去の記憶のような気配を感じさせる、この季節に相応しい言葉と音空間でした。

By T講師

0 件のコメント:

コメントを投稿